彼らがデビューした当時、うるさ型の音楽ファンからの評価はかなり厳しかった。ナンバーガールやオアシスの影響を隠そうとしない楽曲や、ウィーザー以降のパワーポップ然とした作風は、垢抜けないものとして見られていた。とはいえ、『君という花』や『アンダースタンド』のような、ポップなオルタナティブ・ロックをストレートに鳴らすことが、このアルバムに確かな推進力を与えた。実際に彼らを見つけ、支持したのは、うるさ型のファンではなく、NARUTO経由で入ってきた子どもたちや、これが初めてのロックンロールだった若者たちだった。半径5メートルの誰かに向けて、まず手を伸ばす。その泥臭さやいなたさは、当時「エモ」の一言で雑に片づけられた。そうやって切り捨てた連中の顔を、俺はよく覚えている。むしろ、その不器用さを引き受けることにこそ、彼らの出発点があった。後にスタジアムバンドへと至る、その礎がここにある。
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多くの人が指摘するように、LCD、hot chip辺りの00s後半から10s前半にかけてのダンスパンク、ダンスポップを中軸に据えた作品。 このシーンのバンドやDJの多くが、EDMの影に消えていった。この一派にいたカルヴィンもEDMに鞍替えしてしまったと考えると、ある種のレクイエムのように感じる。 白眉は、ダンスフロア後の寂しさが漂うようなamerican girlsと、!!!とポップを混ぜたようなDance No More。 ダンスミュージックってのは、本当は孤独な音楽なのだ。一瞬の享楽をフロアで共有して、そして揺らぎの沼にみんなで落ちる。夜明けのパーティの後は、もう誰も残っていない。 ハリー・スタイルズは、たった一人でパーティをしているように思う。そこには、かつて栄華を誇って死んだダンスパンク/ロックが良く似合う。
ビートルズがアイドルから表現者へと脱皮した作品であり、自分が初めて触れたロックアルバムでもある。最初に触れたビートルズ作品がその人の感性を決める。これは持論だが、少なくとも自分にとって『ラバーソウル』はその後の美意識を確実に規定した一枚だ。 『イン・マイ・ライフ』が象徴するように、青春との別れと人生の哀感が静かに流れている。派手に叫ばない。だが、そのぶん深く沈んでいく。シタールを導入した『ノルウェイの森』には、村上春樹にも通じる青春の気怠さと儚さがある。端正なポップ・ロックの内側に、説明しきれない欲望と微かな棘が潜んでいる。 『ひとりぼっちのあいつ』が歌うのは、どこにも辿り着けない誰かのことだ。彼のことでもあり、あなたのことでもあり、自分のことでもある。 『ラバーソウル』は、今も孤独な魂に寄り添い続けている。
『Low』は、ボウイの最も優れた部分が出た作品だと、俺は思う。2026年はボウイ没後10年。その節目にあえてベストを挙げるなら、この一枚だ。前半では、クラウト・ロックの音響感覚とホワイト・ファンクが鋭く交差する。後半では、イーノの感覚を深く吸い込んだアンビエント・ポップが広がる。分裂しているようでいて、アルバム全体は一つの美意識で貫かれている。 この作品が美しいのは、単に洗練されているからではない。ベルリンという都市で、名もなきシチズン・アーティストから吸い上げた、ストリートの知性と退廃が全編に滲んでいるからだ。ストリートと知性。この相反するものを同時に鳴らした感性こそが、本作を今なお特別なものにしている。ジャンルを越えて、多くの表現者に示唆と勇気を与え続けている理由もそこにある。「クール」という言葉が最も似合うアルバム。